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自分の父親や母親を客観的に観察するようになったのは、いくつの頃からだったろう。たぶん、自分自身を幾分でも観察できるようになってからだと思う。子として親を観るのであれば、それは記憶にない時期からに違いない。子も成長すればそれなりに親を理解もする。しかし作家と子の視点は別物である。そこに落とし穴がある。激しく反発することは愛情の裏返しでしかない。同じ土俵での近親憎悪に過ぎない。そのことを承知の上で、作家はあえて家族を描くのだろう。 虚と実の狭間などという手法は、戯曲出身の柳美里にしてみれば才能でも独創性でもない。「家族シネマ」の魅力は、家族を完全にキャラクター化することで、その落とし穴を超えたことだと思う。自伝エッセイ「水辺のゆりかご」が実であり、「家族シネマ」は虚の世界である。虚と実を彼女は峻別している。その狭間の火花など作家の狙うものではないという気概が、若い作家を急成長させたのではないか。 作家ではなく子としての視点が見える部分がないわけではない。しかし「現実感のない人にしか惹かれない」と主人公に語らせるとき、深見という奇妙な老人に父親の影を読みとることは容易だろう。彼女の書くものは私小説ではない。けれども、優れた文学作品は、ちゃんと私小説の味をもっている。 安易に神の視点に逃げ込まぬ、作家としての魂なのだ、と僕は思う。 <1998.02.15/「文学地帯」VOL.93> |