幻冬舎アウトロー文庫の1冊。原題は現代書館刊行『異端の笑国−小人プロレスの世界』。アウトロー文庫というネーミングが嫌いだし、題名も原本の方が遥かに良いとは思うけど、とにかく文庫化されたことで読むことができたのだから、その点には触れないでおこう。 小人プロレスというものをテレビで見たことのある人は、もう年代的に限られてしまうだろう。様々な原因で身長が伸びなくなった人がレスラーとなり、リング上を駒のように走り回り、コミカルな技で観客を楽しませるものだった。ミスター・ボーンやリトル・フランキーといった名レスラーの名前を、僕も記憶している。かつてはストリップ劇場やキャバレーの余興であり、全盛期には女子プロレスの前座として興行し、クラッシュ・ギャルズが人気になってプロレス会場に若い女性が詰め掛けるようになるまでは、女子プロレスを凌ぐ人気を持っていた。それがどうして消えてしまったのかという話である。 高部雨市というノンフィクションライターを僕は知らなかっが、1950年生まれで、竹中労を師と仰ぎ、朝日ジャーナルに寄稿していた人なのだそうだ。こんな例もある年代以上の人にしか通じないが、いかにも中核派のアジテーションを聞いているような独特の言い回しである。まず己自身の内にある差別性と向き合い、取材するたびに己の未熟と無知を恥じ、社会や世間の嘘臭さに噛み付く、といったトーンだと言えば分かってもらえるだろうか。ノンフィクションライターの心情というものは本来そういうものなのだとは思うけど、正直鼻につく。己の未熟や無知を恥じて傷つくことは、善良さの表現(つまりは傲慢)に過ぎないのだと思う。読者にとって、書き手自身が善良であるかどうかなど、どうでもいいことだ。かつて小人プロレスのスターだった人々と何年も付き合い、本音を取材できるようになるまでの苦労が並み大抵のことでないことは理解できるけど、読者が知りたいのはそのことではない。 と、書き方はあまり好きになれなかったのだが、言いたいことには充分共感できた。要するに「みせかけのヒューマニズム」に対する怒りなのだと思う。小人プロレスがテレビで放映されなくなったのは、障害者を見せ物にするなという抗議が殺到するからなのだそうで、深夜のドキュメンタリー番組の企画すら、何度も没になったのだそうだ。テーマが重すぎるというテレビ局に対し、五体不満足の著者が活躍して、小人プロレスが排除されるテレビの論理とは何なのか、と著者は問う。障害者を見せ物にするなと抗議する人の多くが、実は彼らと実際に接したことのない「善良」な市民なのだという点にも納得できた。彼らと興行を共にした女子プロレスラー達の証言の数々が、記憶に残る。 僕は高部氏より5歳年下だが、確かに、見たくないもの、見せたくないものを排除するという社会の抑圧は、目に余ると思う。ホームレスのビニールテントを排除して、そこに花壇を造ってしまうような行政の発想は、誰かが支持してもいるのだろうと感じる。そうやっておいてボランティアや障害者福祉という枠をはめた映像は垂れ流されているのである。そんな社会では、笑いも嘘臭くなるのだと思う。全盛期の「8時だよ全員集合」に小人プロレスを起用してブラウン管に登場させたのは故いかりや長介氏だったのだそうだ。そんな芸人も今は少なくなっているのだろう。抗議のこない安全な笑い、くり返される親しみやすさの押し売り……そんなものより、僕は小人プロレスのプロの芸を見たい。 なお、小人という言葉は差別用語だそうだ。だからミゼットプロレスと言い換えるような「良心」を、僕は軽蔑する。同情して眉をひそめるような人よりも、金を払って大笑いしてくれる観客の方が、有り難いのである。 <2004.07.17> |