中島敦の遍歴(勝又浩)

 2004年10月、筑摩書房の新刊。「山月記」や「李陵」は読んでいても、中島敦論の類を読んだことがなかったから、面白く読めた。今はどうかしらないが、かつて「山月記」は教科書の定番だったから、これまで何万人もの国語教師が論じ、その何百倍もの生徒達が何かを消化したつもりになっているものだろう。正直、僕自身も今さら中島敦から新しい刺激を受けるということはないだろうと思っていた。

 そういう場合、普通なら従来の中島敦像をひっくり返すとか、人間中島敦というような切り口で攻めるとかするものなのだが、この評論に、奇を衒ったところはない。だからといって、オーソドックスな教科書的解釈かというと、そうでもない。たぶん優れた作家論のすべてがそうなのだろうが、この本も中島敦を語りながら文学そのものを論じているようなところがあって、読者は中島敦をより深く理解できたというより、文学そのものについて考えさせられるような刺激を受けるのだろうと思う。

 「中島敦の遍歴」の前半は中島敦の生い立ちや妻と交わされた「南洋書簡」について、後半は「山月記」「李陵」「名人伝」などの作品論である。無論、前半と後半は密接に絡み合っていて、作家は作品がすべてであるという観点からは邪道なのだろうが、「山月記」の李徴がなぜ虎になったのかといった現代国語の授業のような設問は、中島敦自身の「獣の心」を理解しなければ、ただのエゴイズムの権化という一般論にするしかなくなるのだろうと思う。けれどもこの「獣の心」はエゴイズム一般ではない。詩人が詩にのめり込んだあまり妻子を顧みなくなるといういかにも大正文士や私小説作家を連想させるような身勝手さは、あくまで文学畑の話であって、優しすぎたり、正直すぎたり、純粋すぎたりする結果なのだ。「我とは」「世界とは」と大人になっても問い続けるのも、文学の領域の話であって、普通の(健全なと言ってもいい)人間は、そんな問い自体を棚上げにして人生を終えるのである。

 そんなことも、この著書にはもっと明解に書き記されているのだが、「山月記」の李徴はなぜカフカの描いたような「虫」ではなく「虎」なのかとか(そこが甘いという批評があるらしい)、中島敦に恋愛小説がないのは愛に無関心なのではなく創作のテーマにする必要がなかったからだとか(確かに「南洋書簡」から引用されている妻タカとの往復書簡の美しさは無類のものだ)、「山月記」が最も有名な作品なのは「虎」にした感傷性が大衆性を得たからだが最高傑作は遺作の「李陵」であるとか、「山月記」から「李陵」に至る中島敦の成熟だとか、「述而不作」の精神とか、「中島敦の遍歴」に書かれてあるそれぞれが、今の僕には刺激的だった。

 ところで、「中島敦の遍歴」を読みながら、僕はつくづく考えてしまった。
 中島敦の生い立ちは文庫本の巻末にも掲載されているものだが、一歳で生母と死別し、五歳で父が再婚、その継母も十四歳で死去、十五歳のときに父がまた再婚。その間、父の転勤のために小学校の転校が続き、十九歳ですでに喘息の発作が始まる、というものである。芥川龍之介や漱石を持ち出すまでもなく、それは日本の近代文学者の見本のようなもので、そもそも文学に泥濘することさえなければ、平凡な幸せを得ることに苦労するような層ではない。それがどうして「獣の心」を持つに至るのか、その主な理由が生い立ちにあるのなら、文学はつまるところ平凡な家庭に育ち得なかった人々による、家庭の補完物なのかと思えてくる。たぶん、それは一面において現代においても正しいのだろう。外からは平凡な家庭に見えていても、そうでない例はいくらでもあるのだから。けれども、だとしたら、そんな人々が近代的自我だの、現代人の苦悩だのを代表するものなのか。文学とは、どこまでもその時代を代表したりするものではなく、異端なのだと思えてならない。

 彼らが平凡な幸せに満足できなかったのは「俗物の間に伍すことを潔しとしない」「尊大な羞恥心」のためということになるのだろう。その「尊大な羞恥心」を乗り越えるためには、弓の名人が弓そのものの存在を忘れるに至るほどの刻苦を必要とするのは当然のような気がするが、反面、自分には関係のないエリートの話だなと感じたりもする。今や東京帝大に進むようなエリートでなくても「尊大な羞恥心」を抱え込んでしまう人間はいる。その大半が勘違いや自惚れだったとしても、とにかくそんなものは抜け出さなければろくな作品にならないのだから、自分なりの出口がみつかるまで、書き続けるしかないのだろう。
 
<2005.05.05>

『天見文庫』