地元の図書館で松下裕著「評伝中野重治」(筑摩書房)を借りて呼んだ。1998年の本だが、2011年に平凡社ライブラリーとして再出版されているらしい。僕が借りた本は4900円もする分厚い本で、こんなときは図書館がほんとに有難いと思う。
著者はロシア文学が専門らしいが、中野重治全集の編集を任された人。中野重治については、佐多稲子の「夏の栞」などの名作やたくさんの評論があるが、中野重治の肉声に一番多く接しているという点では、たぶん最も優れた評伝になっていると思う。構成は下記のとおり。
・生いたち
・文学修業
・獄中と転向
・出獄後
・日中戦争期
・太平洋戦争期
・敗戦後
・「50年問題」前後
・日本共産党中央で
・晩年と最期
中野重治集の年表を見れば分かることなのだが、この本を読んで改めて感じたのは、逮捕され獄中で転向してから(1934年)、太平洋戦争開戦(1941年)までの間に7年もあるという事実。その前の日中戦争開戦時(1937年)に執筆禁止の処分を受けているから、いわゆる転向小説五部作(「第一章」「鈴木 都山 八十島」「村の家」「一つの小さい記録」「小説の書けぬ小説家」)は、1934年から1937年のわずか3年余りの間の仕事だということになる。
中野重治だけでなく、宮本百合子など多くの文学者・小説家が同じ時代を生きたのだが、国家が本当に戦争を始めるつもりになったら、言論弾圧はその十年前から始まっていると考えるべきなのだろう。それにしても、獄中で転向させられてからも、中野重治と宮本百合子は国家による発禁処分などに対する異議申し立てなどの抵抗活動をずっと続けている。太平洋戦争開戦時に東京にいた宮本百合子は逮捕投獄されたが、中野重治はたまたま父親が危篤で帰省していて逮捕されなかったのだという。
転向文学といっても、中野重治の場合は特別な印象が僕にはある。転向して真逆になる作家もいれば、まったく過去に触れない作家もいる。ところが、中野重治の作品は転向自体を正当化して居直るというところがない。たぶん、そのことを生涯恥じ続けていたのだろう。著者によれば、そのために出獄直後、獄中生活を支え続けていた妻と離婚の危機さえあったらしい。戦後、妻さえたしなめるほど過激な言葉を投げつけて他派閥に属する作家を攻撃した心の奥底には、文学者として最低限持つべき「恥しさ」を理解しない人物への苛立ちがあったのではないだろうか。
中野重治は転向してからのほうが素晴らしいという人さえいるが、僕は「雨の降る品川駅」を書いた頃の詩人中野重治も、「村の家」を書いた中野重治も、同じ中野重治だと思う。だから、戦後共産党に復帰し、参議院議員を務めた中野重治も、共産党を除名されて「日本のこえ」に参加しながら、すぐに離れてしまった中野重治も同じなのだ。文学と政治、文学と組織という問題について、中野重治ほど実人生をかけた人はいない。論争のあれこれに勝負づけをすることは可能だろうが、中野重治の精神の気高さは一貫している。
ただ、詩を書かなくなったことについては、著者が書いているとおり、転向のせいだと僕も思う。「君は歌うな」で始まる有名な詩にひっかけて論じることも可能だろうが、「歌」という有名な詩は、腹の底から湧き上がるものだけを歌えと書いているのであって、いかにも中野重治らしい詩のひとつにすぎない。著者はよほど信頼されていたのだろう。中野重治から直接聞いたという発言も多くある。僕が一番印象に残ったのは、次のような言葉。
「『短歌写生の説』というのは、社会主義リアリズムのように、あらゆるものを包摂して、限定できない性質のものでもあるのだね」
また、物を書くことを禁じられ生計を立てられなくなった時期に、宇野千代が三好達治を介して援助を申し入れ、そのことを堀辰雄が中野重治に伝えたというエピソードも紹介されている。中野重治は感謝の言葉を述べて援助そのものは辞退したそうだが、プロレタリア文学が今のように読まれもせず異端扱いされていたわけではない事例として興味深い。
最期に、この本の表紙がいい。中野重治の顔が実にいい。作家は最期は顔だ。いや、人は最後は顔だ、というべきか。
<2013.01.01>
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